【1984年 台湾 炭鉱】生きるために仲間を食した悲惨な事故の詳細とは?

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こんにちは。タクヤンです。

今回お話しするのは

1984年 台湾 炭鉱

です。

【閲覧注意】”パリ人肉事件”、”佐川一政”という検索してはいけない言葉の優しい解説

 

 

「1984年 台湾 炭鉱」の概要

「1984年 台湾 炭鉱」の概要

「1984年 台湾 炭鉱」という単語で出てくるのは実際に台湾の炭鉱で発生した94人の炭鉱夫が生き埋めになった事故。

 

その事故のたった一人の生存者の男性が同じ炭鉱で生き埋めになっていた人間を食べていたという。

 

 

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台湾での炭鉱事件の発生

「1984年 台湾 炭鉱」の唯一の生存者

1984年6月20日に台湾で当時2番目の規模を誇っていた海山鉱山で大規模な爆発事故が発生し94名の作業員が生き埋めになり、台湾史上最悪とも呼べる鉱山事故

 

「事故がどうやって起きたのかは分かっていない。

作業員の一部は爆発後に鉱山の中に入っていき仲間を救助しようとしたが結局全員死んでしまった。

あそこは呪われていたといわれていたのでもしかしたら自然の人間に対する復讐だという人もいた」

と生存者の男性は語っています。

当時事故が起きた場所の室内は室温が38度近いで、猛毒のガスや一酸化炭素などが充満しており、ゴキブリですら外へ逃げれないほどといわれていた。

 

 

「1984年 台湾 炭鉱」で生き残った男性は?

「1984年 台湾 炭鉱」で生き残った男性は?

この事故で生き残った男性は「周宗魯」さんで当時は54歳ほど。

事故が発生したとき、彼は一酸化炭素を吸い込むのを防ぐために自分の尿にマスクを浸して装着するという機転で助かっていました。

飲み水も自分の尿や湿気によって岸壁にできた水滴を舐めることで凌いでいました。

 

ですが空腹はどうしようもなく、2日間なにも食わずの彼は耐え切れなくなり亡くなってしまった同僚の作業員の体を切り刻んでその肉を食べたという。

事故発生から4日目についに救助されましたが、世間からは激しい批判を受け、彼自身もそのことに対する罪悪感や恐怖から

お前は俺を食った!

お前は人生をかけて償うんだ!

と決まった同僚が夢に現れて自分に向かって叫んできていたそうです。

そんな生活を事故発生後10年間も苦しんでいたそうですが、ある時にその同僚の家族が現れて彼のおかれていた状況を理解して、その行為を許すという発表を公式に行った。

 

「1984年 台湾 炭鉱」で生き残った男性は牧師として活動

その後周宗魯氏は神学校で研鑽を積んで神父として台湾中に教えを説いて回る旅を続け、2016年の6月に86歳という年齢で家族に見守られながら安らかに息を引き取りました。

 

 

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周宗魯さんの残した言葉

「1984年 台湾 炭鉱」で生き残った男性は最後は愛する家族のもとで亡くなった

インタビュアー:「もしも過去に戻れるとすれば、あなたは同僚を再び食べると思いますか?」

周宗魯氏:「私はあの事故を生き延びた。つまり他の93人の命も私と共にいきのびたということです。

 

 

「死んだ人間の肉はまずい。やっぱり生きている人間の肉が一番うまいよ」 
「もし事件当時に戻ったとしても、やっぱり人肉を食べるよ。だって生きるためだもの」

上二つの言葉は本当に言っていたかどうかは不明ですが、間違っていけないのは別に彼は食人を楽しんではいないということです。

 

 

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終わりに

この事件は1980年代に起きた事故としてはかなり悲惨です。

こういった状況に陥った時、人がどんな行動をとるのか?

そういったことを知ることができる事故ではありますが,私が同じ状況に陥った時同じ行動をとれるかは分かりません。

食人こそは強く否定しますが、彼の生きるために取った行動を批判することはできません。

 

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